著者名:菅直人
プロフィール:
1946年(昭和21年)10月10日生まれ、山口県出身。日本の市民運動家、弁理士、政治家。第94代内閣総理大臣。
東京工業大学理学部応用物理学科(現・物理学科)に入学。学生運動にのめり込んだが、全共闘や民青からは一線を画した「全学改革推進会議」を立ち上げ、リーダーとして活躍した。
大学紛争の影響で卒業研究が出来なかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年。1970年に東京工業大学理学部応用物理学科(現・物理学科)を卒業。
卒業後は小田島特許事務所に就職。弁理士をめざし、資格を取得して独立し、「菅特許事務所」を開設する。
弁理士という職種を選んだのは、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった。
市川房枝の選挙事務所代表を務め、選挙参謀として尽力したことが政界入りのきっかけとなった。その後、1976年の第34回衆院選に東京都第7区(当時)から無所属で立候補し落選したが、こうした活動が江田三郎の目に止まり、誘われる形で社会市民連合に参加した。
1977年の第11回参院選では社会市民連合から出馬したがまたも落選し、1979年の第35回衆院選では社会市民連合から名称を変更した社会民主連合から出馬し、またも落選したが、1980年の第36回衆院選で初当選。
社会民主連合では主な役職として1978年副代表、1985年に副書記長兼政策委員長を務めた。1986年の総選挙で社会民主連合は4議席を獲得したが、選挙直後に2人ずつ日本社会党会派と民社党会派に分かれて所属することになり(その結果民社党会派が日本共産党会派を数で上回り、議会内ポストを共産党会派に渡すことを阻止した)、菅は社会党会派に属した。この形式は、1990年の総選挙まで続いた。
1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介衆院議院運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した。
その後、非自民連立政権から自社さ政権へ。
1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅も参加した。菅は鳩山と共に代表となり旧民主党がスタートした。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流して、新民主党を結成し、代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。
1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。
2000年(平成12年)に党幹事長に就任。2002年(平成14年)に鳩山由紀夫代表が辞任すると、岡田克也幹事長代理と代表選を争い、党代表に再び就任。次の内閣総理大臣にもあわせて就任した(社民連時代は社会党シャドーキャビネットに入閣しなかった)。
2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した(民由合併)。
同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェスト(政策綱領)に掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例代表では自民党を上回った。菅は党代表として、やがて衆院選を迎えるに当たり、時の小泉首相に対し、自民党はマニフェストを国民の前に提示するのかどうかを迫り、期限や事後チェック付きの政権公約としてのマニフェストと従来の公約との違いを自民党にも明確化するよう迫った経緯がある[要出典]。小泉首相は、政党統一の政権公約として期限や事後チェックなどマニフェストとしての扱いを受けることを嫌い明言を避け続けていたが[要出典]、実際に2003年衆院選が行なわれる段になると、小泉自民党を含む主要政党のほとんどがマニフェストを掲げて選挙戦を戦うこととなった。菅個人は、この2003年衆院選において初めて比例を辞退して小選挙区のみで出馬し、比例上位優遇で国替えしてきた鳩山邦夫に完勝した(ただし、鳩山邦夫も比例復活)。
2005年9月11日の第44回衆院選(小泉首相の解散による郵政選挙)では、東京都の民主党候補では僅差ながらも唯一小選挙区での勝利を果たした。なお、この郵政選挙では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認(比例単独2位)でついに立候補し、事実上の一騎打ちとなった。郵政民営化・刺客選挙を展開して時流に乗る自民党に対し、民主党は党全体が大逆風を受けていたが、そんな中、菅は全開票所で勝利し、面目を保った(土屋正忠候補は比例復活当選)。
同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補し、小沢一郎からも本命視されていたものの、投票直前の演説で若き日からの辛酸と情熱を巧みに訴えた若手の代表格前原誠司に2票差で敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されたが、これを固辞し、一兵卒として前原民主党を支えると表明した。
党代表戦に敗れた後は、団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動や、バイオマスの活用を盛んに提唱し始めた。
2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣発足により、内閣府特命担当大臣(経済財政政策・科学技術政策担当)に就任した。あわせて、国務大臣として「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することになった。内閣法第9条に基づく内閣総理大臣臨時代理の指定順位は第1位となり、いわゆる「副総理」格としての入閣となった。ポスト鳩山の呼び声もあったが、国家戦略局設置のための法案の年内での国会提出が見送られ、その前身となる国家戦略室もうまく稼動していないとされ、当初、国家戦略相として予算編成の「司令塔」を期待されながら、その役割を果たせていないとも評された。一方で、政府の新成長戦略策定ではこれを主導する役割を果たした。
2010年1月7日、財務大臣の藤井裕久の体調不良による辞任に伴い、後任の財務大臣に横滑りの形で就任した(内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)は引き続き続投)。財務大臣就任会見で、「90円台半ばあたりが適切」と具体的な為替水準にまで言及する円安誘導発言を行い話題を呼んだほか、財務大臣として日銀に対しより一層の金融緩和を進めるよう働きかけた。一方で、国会質疑の場で乗数効果、消費性向などについての質問を受けると答に窮し、質疑を止めて官僚を呼ぶなど財政政策に対する理解の浅さを指摘された場面もあった。鳩山内閣の支持率が低下する中、菅は各種世論調査で「次期首相にふさわしい人物」の上位に位置するなどポスト鳩山の有力候補の一人と目された。
2010年(平成22年)6月2日の鳩山首相の退陣表明を受け、後継を選出する民主党代表選挙への出馬を表明。6月4日、民主党代表選挙に勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に指名され、6月8日に正式に就任した。