著者名:山崎拓
プロフィール:
1936年12月11日生まれ、満州国(現:中華人民共和国)大連市出身。衆議院議員。本名はやまさき ひらく。
満州国大連市(現在は中華人民共和国の大連市)で生まれた。たまたま、同じ日に母方の祖父の山口慶八が福岡県三池郡開村(現在のみやま市の一部)で炭鉱開発に成功したため、父親に生まれてきた子の名を「開」とするよう電報を打った。父親は開拓の「拓」の字を名付け、読み仮名を炭鉱開発と満州開拓を掛けて「ひらく」とした。父方の祖父の山崎和三郎は飯塚炭鉱を経営し、玄洋社の幹部であった。
第二次世界大戦の終戦後に帰国し、福岡県福岡市で育つ。小学校3年生の時に片目を失明し、身体障害者となる。福岡教育大学附属福岡中学校、福岡県立修猷館高等学校、早稲田大学商学部卒業。朝日新聞編集委員、朝日ジャーナル編集長を務めた伊藤正孝とは、中学・高校・大学での同期で親友であった。学位は商学士(早稲田大学)。
大学卒業後は大手タイヤメーカーのブリヂストンで5年間のサラリーマン生活を送る。
1967年に福岡県議会議員に当選。この頃に中曽根康弘に見出され、1969年の総選挙に無所属で出馬するも落選。浪人生活[1]を経て、1972年に衆議院に初当選し、その後防衛庁長官、建設大臣を歴任する。
1990年ごろから、旧経世会主導の自民党の政治運営を批判し、小泉純一郎、加藤紘一とともに、YKKを結成して活動していた。