著者名:福原愛
プロフィール:
1988年11月1日生まれ、宮城県出身。B型。日本の卓球選手。全日本空輸 (ANA) に所属。
福原は3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場し、「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。
一躍国民的アイドルとなった5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作った。
小4でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約を結び、仙台より大阪へ引っ越した。
小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。
中1の4月に公立中学に入学したが、卓球面での環境を考え青森に引越した。以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げた。
この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになった。選考会等を経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出。この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定。
2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成。
2004年4月、高校進学。日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選でシングルス3位となり、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取った(他は梅村礼、藤沼亜衣。尚、小西杏と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。
長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。
アテネ五輪は1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、4回戦はキム・キョンアに負けた。
2005年3月に、ミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。
直後に、中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。
この超級リーグは週1、2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいたため、シングルスの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。
8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイや帖雅娜といった強豪相手に快進撃を続け3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。
2006年5月には世界選手権ブレーメン大会で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得した。
2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し青森から引っ越した。
春季リーグに出場したものの2部から1部に昇格させることはできずに終わった。(翌2008年春リーグから関東学生リーグは1部所属校を6校から8校と増やした。)。
2007年4月3日、全日本空輸 (ANA) との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。
2007年5月の第49回世界卓球選手権個人戦で3回戦敗退。大学の試合は2007年春リーグ以外出場しておらず、個人練習での強化に努めてた。
2008年1月、世界ランクが10位と、世界ランクの上位から1カ国・地域2名を上限とし上位20名に与えられる代表資格を獲得し北京五輪日本代表に内定した。
6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命された。卓球選手では初であり、最年少である。本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話した。五輪は平野早矢香、福原、福岡春菜の3人でシングルス、団体戦に出場した。
その後よりレベルの高い試合で実戦感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるITTFプロツアーを中心に出場。日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになった。
そして、海外ツアーや中国のスーパーリーグ参戦を優先するため、および早稲田大学の単位の取得が困難になったために、2010年3月で早稲田大学を退学し、卓球に専念して2012年のロンドン五輪に臨む意向であることが関係者から明らかになった。
2011年5月、ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也とペアを組み、この種目で日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得。大会終了後の5月16日付世界ランキングで日本人2番目の9位となり、ロンドンオリンピックシングルス出場権を獲得。
そして2012年1月21日、東京体育館で開催された全日本選手権において、決勝戦で石川佳純を4-1で下し、13回目の挑戦にして念願の選手権を獲得。
ロンドンオリンピックのシングルスは、第5シードとして3回戦から登場し、アンナ・チホミロワ(ロシア)を4-0と退け、4回戦で、ジエ・リー (オランダ)に対し、ゲームカウント1-3と追い詰められたが、そこから3ゲームを連取して4-3でオリンピックでは自身初の準々決勝進出を達成。準々決勝では世界ランク1位の丁寧と対戦して、第1ゲームでは先にゲームポイントを迎えたが、これを取れず、結局0-4で敗れた。
団体戦には平野早矢香、石川佳純と共に出場。1回戦アメリカ、準々決勝ドイツを破った後の準決勝シンガポール戦では第1戦目でシングルス銅メダリストのティアンウェイ・フェンを3-1で破った。続く2戦目の石川のシングルス、3戦目の石川・平野ペアのダブルスも日本が勝ち、日本勢オリンピック史上初の決勝進出を果たす。決勝戦で中国に敗れ2位となり、銀メダルを獲得した。