著者名:田中将大
プロフィール:
1988年11月1日生まれ、兵庫県出身。プロ野球選手(投手)。
伊丹市立昆陽里小学校1年時に軟式少年野球チーム「昆陽里タイガース」で野球を始め、4番・捕手として坂本勇人(後の巨人内野手)とバッテリーを組んでいた。打撃練習では左翼方向への本塁打を連発し、しばしば同じ方角にある校舎の窓を直撃しかけたという。
小学校時代の最高成績は6年時の県大会準優勝。伊丹市立松崎中学校時代にボーイズリーグの「宝塚ボーイズ」で硬式野球を始めると強肩を買われて投手も兼任するようになり、3年時には関西南選抜チームに選出された。「野球の練習となるとその熱心さからか、しばしば周りから怖がられていた」と当時を知る人物は語っている。
駒澤大学附属苫小牧高等学校に進学後は本格的に投手に専念するようになり、2年夏の第87回全国高等学校野球選手権大会では背番号11ながら主戦投手として140km/h前後の速球と高速スライダー、フォークを武器に57年ぶり史上6校目の大会2連覇に貢献。決勝戦で優勝を決めた最後の1球は2年生では史上初の150km/hを計測した。大会後、AAAアジア野球選手権大会日本代表に2年生では堂上直倫と2人だけ選出され優勝。
決勝再試合のスコアボード2年秋からは香田誉士史監督の就任後初のエース兼主将となり秋季北海道大会では堂上を参考にフォーム改造した。打撃でも決勝を含む5試合中4試合で本塁打を放つなど活躍し、決勝では過去最多の13点差で優勝。その後行われた明治神宮野球大会でも北海道勢として初めて決勝に進出し優勝。第78回選抜高等学校野球大会では優勝候補に挙げられていたが、部員の不祥事により出場辞退となった。
史上2校目の夏3連覇が懸かった第88回全国高等学校野球選手権大会では大会直前から体調を崩して苦しんだが、チームは決勝に進出。早稲田実業との決勝戦では3回途中からリリーフ登板して延長15回まで1失点。しかし早実の斎藤佑樹も1失点で完投し、37年ぶりの決勝引き分け再試合となった。再試合でも1回途中からリリーフしたが、最後の打者となり斎藤に三振で打ち取られ3-4で敗れた。
大会後は全日本選抜としてアメリカ遠征に参加し、秋ののじぎく兵庫国体では決勝戦でまたも斎藤と投げ合ったが0-1で敗れ準優勝。2人を中心とした熱戦は国内で同年のスポーツを代表する名場面となった。
高校時代の田中将大(2006年8月17日、阪神甲子園球場)最速150km/hの速球と高速縦スライダーを武器に、高校通算458奪三振を記録し、高校通算奪三振数、奪三振率とも横浜高校の松坂大輔を上回り、周囲からは「怪物」「世代最強エース」等と評された。打者としても高校通算13本塁打を記録している。
同世代の投手では随一の評価を受けていたが、甲子園での熱闘に加えて斎藤が大学進学を表明した事で更に注目が集まった。指名されればどの球団でも入団する意思を表明していた事もあって全12球団の指名候補となっており、複数球団の競合が確実視されていた。
2006年9月25日の高校生ドラフトにおいて、北海道日本ハムファイターズ、オリックス・バファローズ、横浜ベイスターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスから1巡目指名を受け、抽選の結果楽天が交渉権を獲得。11月2日に契約金1億円+出来高、年俸1500万円(いずれも推定)と、高卒では異例の大学・社会人出身希望枠と同等の条件で仮契約を結び、背番号は18に決定した。
2007年1月3日放送の「さんまのまんま」に中日ドラゴンズの落合博満監督がゲスト出演した際、明石家さんまから「佑ちゃんは残念でしたね、プロに入らなくて」と聞かれ、落合は「そんなことない、楽天の田中のほうが逸材。彼は松坂を超えるかもしれない」とコメントした。
2007年は春季キャンプでのフリー打撃、紅白戦、オープン戦の初登板が全て雨で中止か延期となり、チーム内で雨男とあだ名された。
3月29日の福岡ソフトバンクホークス戦で初登板初先発、1回2/3を投げて打者12人に対し6安打3奪三振1四球で6失点。4回に同点となって敗戦投手にはならなかったが、降板後のベンチで涙を見せた。4試合目の登板となった4月18日のソフトバンク戦で9回を2失点13奪三振に抑え初勝利初完投。
6月13日の中日戦で高卒新人では2005年のダルビッシュ有(日本ハム)以来の完封勝利を記録。同年のオールスターゲームに高卒新人では1999年の松坂以来となるファン投票で選出され出場、7月22日の第2戦に先発して自己最速の153km/hを記録した(2回6失点)。
7月10日には高卒新人として松坂以来史上6人目、江夏豊と並び最速タイとなる96回2/3でのシーズン100奪三振を記録。
8月31日の埼玉西武ライオンズ戦で松坂以来、球団史上初となる高卒新人での2桁勝利を挙げた。リーグ4位の186回1/3を投げ、11勝。高卒新人では歴代4位となる196奪三振を記録(リーグ2位)。
松坂以来8年ぶりの高卒1年目で新人王を受賞した。同年は連敗ストッパーとなることが多く、野村監督は「だって(田中は)ウチのエースだもん」と答えたこともあった。また、ソフトバンクとの相性が良く6試合に登板して5試合で勝利投手になった。
2008年はシーズン前に2年目のジンクスについて聞かれ「全く考えていない。いまやるべきことをやるだけ。そのことは二度と聞かないでほしい」と答えた。
5月4日の札幌ドームでの日本ハム戦で勝利投手となり、高校時代を過ごした北海道での初勝利を挙げた。同球場では通常レギュラーシーズンの試合でビジターチームのヒーローインタビューは場内放送されないが、日本ハム側の計らいで特別にインタビューが場内に流され、日本ハムファンからも大きな拍手が送られた。
6月22日の広島東洋カープ戦ではプロ入り後初めてリリーフ登板し初セーブを記録。この試合では打順の関係から4番に入って「4番ピッチャー田中」となり、満塁で回った打席では2-3まで粘ったが見逃し三振に倒れた。
北京オリンピック野球日本代表にチーム最年少で選出され、北京オリンピック本戦に出場。背番号は15。初戦のキューバ戦で3番手として国際試合に初登板すると全てのアウトを三振で取り、TV中継で解説していた与田剛は打ち取られた打者の表情を見て「なんだ〜?あの球は〜、みたいな顔してますよ」と語った。大会通して無失点で防御率0.00投手として注目され、チーム最高の奪三振率を記録した。
同年は好投しても打線の援護に恵まれないことが多く、自身の10勝目とチームの最下位脱出をかけたソフトバンクとのシーズン最終戦に先発したが、チームは延長12回サヨナラ勝利をしたものの自身は9回無失点で降板したため勝ち負けは付かず、2桁勝利はならなかった。
2009年は第2回WBC日本代表に選出され、日本代表の大会2連覇に貢献した。
シーズン開幕後はソフトバンクとのホーム開幕戦に先発して完封でシーズン初勝利を挙げると、4月14日のロッテ戦で1失点完投、4月22日のロッテ戦で完封、4月29日の日本ハム戦で野村監督の監督通算1500勝目となる1失点完投と、1993年の小宮山悟、長谷川滋利以来となる開幕から4試合連続完投勝利を記録し、自身初の月間MVPに選出された。5月13日の日本ハム戦で完投は途切れたが、6月3日の阪神タイガース戦で敗れるまで開幕7連勝を記録。
6月11日の中日ドラゴンズ戦で8勝目を挙げて以降は勝ち星から見放されたが、防御率1点台を維持し、7月20日のソフトバンク戦では抑えとして登板し自己最速を更新する155km/hを記録しつつもオールスターゲーム後も思うような結果を残せずにいた。
8月7日の日本ハムファイターズ戦で約2ヶ月振りの勝利となる9勝目を挙げて以降は安定した結果を残し、8月27日の西武戦で自己最多となる12勝目を記録。8月には4試合に登板して4勝0敗、防御率1.44、30奪三振で2度目の月間MVPに選出される。
最終的にリーグ2位タイ、チームトップとなる15勝、リーグ3位となる防御率2.33を記録。10月17日のクライマックスシリーズ第1ステージ第2戦のソフトバンク戦で自身初の無四球完投勝利を挙げ、チームの第2ステージ進出に貢献した。
2010年はシーズン開幕から低調なチームの中でも奮闘し、5月には3度目の月間MVPを受賞し、6月までにチームトップ8勝を挙げていた。
しかし7月に太腿の肉離れで1ヶ月戦線離脱。8月に戦線復帰をしたものの、今度は8月29日の西武戦で投球中に違和感を訴えて降板。診断の結果、右大胸筋部分断裂と判明し、残りのシーズンを棒に振ることになった。11勝、防御率2.50はチームトップだったが、奪三振や投球回はプロ入り後最低となり、怪我に泣いたシーズンとなってしまった。