著者名:松井大輔
プロフィール:
1981年5月11日生まれ。京都府出身。O型。トリッキーなプレーが魅力。
高校は地元の京都を離れ鹿児島実業高校に入学。 3年生時の高校選手権では準優勝を経験している。同高校の2年先輩に遠藤保仁、同級生に那須大亮、1年後輩には上本大海や後に京都パープルサンガで共にプレーする田原豊がいる。
2000年、京都パープルサンガ(当時)に入団。プロ1年目からリーグ戦で22試合出場しプロ初ゴールをあげるなどの活躍を見せたものの、チームは年間順位で16チーム中15位と低迷しJ2へ降格してしまう。
2001年、背番号を前年の26から10へと変更。プレー面でもリーグ戦37試合出場7得点という結果を残し、チームのJ1復帰に大きく貢献する。
2002年、黒部光昭、朴智星らとともに破壊力抜群の攻撃的なサッカーを展開し、同年度の天皇杯優勝に貢献する。2003年6月22日のコロンビア戦で日本代表デビューを果たす。しかし翌2003年は3トップの一角であった朴智星の移籍や黒部の怪我による離脱もありチームは低迷、再びJ2降格を味わうこととなってしまった。
2004年のアテネオリンピックではU-23日本代表の背番号10を背負った。同年9月1日に京都パープルサンガからフランスのル・マンUCに2005年6月までの契約でレンタル移籍。松井の加入後、ル・マンUCは2部の中位から一気に1部昇格圏の2位にまで浮上し、その中心となって活躍した松井は、『le soleil du Mans(ル・マンの太陽)』と呼ばれた。
レンタル期間終了後、2005年7月にル・マンUCに完全移籍。リーグ・アンでのデビューとなった2005-06シーズン初戦の対オリンピック・リヨン戦で先制ゴールをアシスト、第12節の対RCストラスブール戦では鮮やかなミドルシュートを決めて初ゴールを記録。サイドアタッカーとしてル・マンUCの攻撃陣を牽引し続ける。日本代表でも11月16日のアンゴラ戦で代表Aマッチ初得点を記録し、チームの勝利に貢献した。2006年1月にはトロワAC戦での2ゴールなどが認められた形で、日本人初、ル・マンUCのチーム史上初である月間MVPを受賞する。このシーズンには、リーグ・アンのアシストランキングで3位の8アシストを記録するなど、チームの残留に大きく貢献する。
2006-07シーズンは、初戦のOGCニース戦でアシストを記録したもののサッカー選手の職業病とも言える腰痛に苦しめられ、2007年1月にはトロワAC戦で2ゴールをマークしたものの、シーズン後半は6試合連続で欠場した。しかし腰の状態が上向き、よりゴールの位置に近いセカンドトップ気味のポジションに配されてからは、最後の4試合では2ゴール1アシストを記録した。
選出を有力視されていた2006年ドイツW杯メンバーに落選。ケガなどにも苦しんだリーグ・アン2年目のシーズンではあったが、「今までで一番、プレーについて考え、自分のプレーについて研究したシーズンだった」と本人は振り返った。
2007-08シーズンでは第2節で早々に初アシストを記録し、第5節の対ASモナコ戦では月間ベストゴールに選ばれるゴールを決めるなど好調を維持(なお、このゴールはフランスの全国プロサッカー選手連合とCanal+が共同で選定する、リーグ・アンでのシーズンベスト5ゴールに選ばれた)。2007年三大陸トーナメントにてオシムジャパンに初招集。オーストリア戦、スイス戦と出場を果たした。
その後もチームのチャンスメーカーとして攻撃陣を牽引し、リーグ・カップの準々決勝ではオリンピック・リヨンを撃破するゴールを決め、アフリカネイションズカップで主力が軒並み不在な中でも存在感を発揮。大きなケガもなく安定して出場を続け、リーグ戦34試合に出場し5ゴールを記録した。
2007-08シーズン終了後にル・マンUCとの契約を更新せず、他クラブへの移籍を選択した。リーグ・アンで実績を残していた松井にはLOSCリールやパリ・サンジェルマンFCといった国内強豪クラブや前シーズンのブンデスリーガチャンピオンであるVfBシュトゥットガルトなど多くのクラブからオファーが届いたが、熱心なファンが多く、リーグ戦で10度の優勝を誇るASサンテティエンヌへの移籍を決め、2008-09シーズンよりクラブとの3年契約を交わした[4]。シーズン序盤は充分に起用されなかったものの、シーズン途中に監督が交代すると徐々に出場機会を増やしていった。
2009年6月に翌年南アフリカで開催される2010 FIFAワールドカップ出場を目指すため、出場機会を求めてグルノーブル・フット38に移籍した。背番号は移籍前と同じ「22」を与えられた。クラブは序盤から敗北を重ね最終的には最下位で2部への降格が決定した。
2010年6月に2010 FIFAワールドカップにおける日本代表メンバーに選出された。本大会直前の練習試合において、中村俊輔から右サイドハーフのポジションを奪い、グループリーグ全三試合と決勝トーナメント一試合にスタメン出場した。第一戦カメルーン戦においては決勝ゴールとなる本田圭佑のゴールを右サイドからのクロスでアシストするなど攻守に活躍し日本代表の決勝トーナメント進出に貢献した。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でもバー直撃のミドルシュートを放つなど活躍し、PK戦で失敗した駒野友一を泣きながらに慰めるなどあらゆる面で主力選手としての役割を果たした。後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成したW杯南アフリカ大会の報告書では、本田圭佑と共にドリブル技術が高いと評されている。
グルノーブルの降格決定後は1部リーグでのプレーを目指して移籍先を模索。欧州の相当数のクラブが獲得に興味を持ったと報じられる中、松井自身はフランス1部への移籍にプライオリティを置いていたがまとまらず、移籍期間終了間際になってロシア・プレミアリーグのFCトム・トムスクに2010年末までの期限付きで加入することが発表された。