著者名:片山右京
プロフィール:
1963年5月29日生まれ、神奈川県出身。A型。元F1ドライバー、登山家。
パチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。この年の同シリーズでシリーズチャンピオンに輝き、翌1984年も鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを果たすなど好成績を残し、1985年に全日本F3選手権にステップアップ。ランキング6位の成績を残す。
この年の8月にフランスへと渡る。フォーミュラ・ルノースクール(ウィンフィールド・レーシングスクール)を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。
1986年はフォーミュラ・ルノーのフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールでポールポジションを獲得し2位入賞を果たす。
1988年から全日本F3000選手権へ出場したが、この年はパトロンからの資金を元に自前チームを組成しての参戦であったことから、ドライバーとチームマネージャーの二束のわらじを履くこととなり苦戦を強いられた。 前年の苦労から1989年は由良拓也率いる「ムーンクラフト」へ移籍するもオリジナルシャーシーでの参戦であったために結果が出なかった。1990年には名門「ヒーローズレーシング」へ移籍し実力を開花させるも、黒旗無視による失格など出入りの激しいレース展開は変わらずであった。 しかし、1991年には同チームで安定したドライブを見せ、バブル景気で参戦台数が多く、上位争いが激しかったこの年の全日本F3000選手権のチャンピオンを獲得する。ちなみにこの年の8月に中嶋悟のF1引退が発表されたため、「今年チャンピオンを取る片山が次のF1最有力」との話が一人歩きし始め、右京へのプレッシャーを高めることとなり本人を苦しめたと言われる。
1992年からF1に6年間連続参戦、日本人最多出場を記録すると共に、1994年、当時の日本人予選最高位である5位を記録。数字以上に記憶に残るドライビングが多くのファンを魅了した。1999年ル・マン24時間耐久レースでは日本人チーム初の総合2位の獲得に貢献し、2000年には国内GT選手権でも1勝。2005年パリダカではクラス3位入賞。