平成が終わるにあたり、暗い報道関連の番組をチョロっと見てはイライラしておりました。
「明るいニュースもあっただろ!!」と。
特にスポーツ界では、たくさんの感動を与えてくれたり、新時代を切り拓いてくれた選手がいました。
そこで、「平成時代のパイオニア」と呼んでも過言ではない選手を振り返ってみました。
野球界のみならず、日本人が海外にドンドン出て行き、活躍できる道を拓いてくれたのは「野茂英雄」のおかげでしょう。
平成2年(1990年)に日本プロ野球界でデビュー。
新人ながら、四冠(最多勝利数、最優秀防御率、最多奪三振数、最高勝率)を記録し、「ベストナイン」「新人王」「沢村賞」「MVP」にも選出されました。
センセーショナルなデビューで、また「トルネード投法」は流行になりました。
夢であった「メジャーリーグへの挑戦」を、平成7年(1995年)に実現させます。
(球団との確執もあったりで、まさに「背水の陣」での挑戦でした。)
ドジャースとマイナー契約から始まり、5月2日にメジャーデビュー。6月2日に初勝利を挙げました。
メジャー挑戦初年度は、13勝6敗と申し分のないデビュー年になりました。
翌平成8年(1996年)9月17日に、ノーヒットノーランを達成。大記録に日本中が沸きました。
平成13年(2001年)4月4日にも、ノーヒットノーラン達成。歴史あるメジャーリーグの中でも、両リーグでノーヒットノーランを達成したのは、史上4人目の快挙でした。
野茂英雄の活躍がなければ、日本人がメジャーリーグへ挑戦する機会は随分遅れていたかもしれません。
まさに、「野球界・スポーツ界の海外挑戦のパイオニア」と言っていいでしょう。
野茂英雄に続くような形で、サッカー界で海外活躍の道を切り拓いたのは「中田英寿」でしょう。
平成10年(1998年)7月に、セリエAのペルージャへ移籍。21歳のときでした。
デビュー戦をリアルタイムで見た人も多いのではないでしょうか?
中田英寿のセリエAデビュー戦(対ジダン率いるユヴェントス)で、いきなり「2ゴール」の活躍に、これまた日本中が沸きました。
セリエAでの初年度は「10ゴール」と「日本人サッカー選手もやれる!」ことを証明してくれました。
翌平成11年(1999年)には、ASローマへ移籍。
イタリアの至宝トッティがいたため、ボランチでの出場が多くなり、3年目には控えに回ることが多くなるも、出場機会にはしっかり活躍し、ローマの優勝に貢献しました。
平成13年(2001年)からは、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナ、ボルトン(イギリス)といろいろなチームへ移籍。
中田英寿の活躍があり、その後もセリエAやリーガエスパニョーラ、ブンデスリーガへ活躍の場を求める選手がたくさん出てきました。
「サッカー界の海外挑戦のパイオニア」でした。
もう一人、挙げたいのが「福原愛」。
今でこそ、卓球界の出来事がスポーツニュースに取り上げられることは珍しくないですが、福原愛がいなかったら、まだマイナースポーツだったかもしれません。
平成元年生まれで、文字通り「平成のスポーツ選手」です。
幼少期から卓球の数々の大会で優勝し、卓球界では名を馳せていましたが、福原愛の名前を全国区に知らしめたのは、『明石家さんまのスポーツするぞ!』という番組だったでしょう。(平成5年に放送された番組)
まともに戦っては勝てぬとみたさんまさん。そこで愛ちゃんはまだ背が小さかったので、バウンドが大きくなる返球をして点数を稼ぎ、お茶の間の笑いを取りました。
しかし、当の愛ちゃんは大泣きし、ママのところへかけていくという可愛らしい姿が視聴者の心をわしづかみにしたでしょう。
平成10年(1998年)には、小学校4年生にしてプロ契約。
平成17年(2005年)に、青森山田高校に在籍しつつ、単身で世界最高峰の中国リーグへ挑戦。
平成19年(2009年)に、早稲田大学に在籍し、卓球に挑むも成績がなかなか揮わない時期がありました。
しかし、様々な苦難を乗り越えて、平成24年(2012年)のロンドン五輪にて、卓球女子団体で銀メダル獲得。オリンピックでの卓球メダル獲得は日本初の快挙でした。
平成28年(2016年)のリオデジャネイロ五輪では、途中怪我を負うも、卓球女子団体で銅メダル獲得。
いろんな思いが込み上げたのでしょうね。あのときの涙は忘れられません。
オリンピック終了後、結婚。平成30年(2018年)10月には正式に引退を表明しました。
「今後も卓球界へ貢献していきたいと思います。」という言葉が印象的でした。
とても仲良し夫婦のようで、幸せに過ごして欲しいと、ただそれだけを願います。
十二分に卓球界に貢献しました。
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